(3月28日)

本日は武蔵浦和コミュニティセンターへやってきました。

 

歎異抄第三章についてのお話しです。

 

はじめに、歎異抄について。

歎異抄は親鸞聖人が仰ったお言葉が書かれている。

・無人島に一冊もっていくなら歎異抄。

・万巻の書が焼けても、歎異抄一冊が残れば満足できる。

と言われるほど、人々を魅了するのはなぜか。

 

それは、親鸞聖人が有名だから、歎異抄も有名。

 

その中でも、もっとも有名なのが第三章。それがこのお言葉だ。

 

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」

 

これを「悪人正機」という。

 

この中に人生の目的、なぜ生きるの答え、生きる意味が教えられている。

それを教えられたのが親鸞聖人であり、浄土真宗である。

 

「さらに親鸞、珍しき法をも弘めず、釈迦の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」

 

親鸞が常に言っていた言葉からも、それが分かる。

親鸞の言葉、そのまま書かれたのが歎異抄。親鸞の言葉は、釈迦の教えそのもの。これがなぜ生きるの答え、生きる意味である。

 

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」

とは、

 善人でさえ助かる、悪人はなおさら助かる

という意味ですが、これは違和感がありませんか???

 

「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。」

とは、

 悪人でさえ助かる、ならば善人はなおさら助かる

という、これならば分かる。

 

親鸞は全く逆のことを言われている。

 

みんな、自分は善人だと思っているから、善人に自分を当てはめて、新聞沙汰になっている人を悪人に当てはめて聞く。

 

 あの犯罪者が助からならば、私は助かる

というなら分かるが、

 私が助かるのだから、あの犯罪者はなおさら助かる

というのでは、

 私に悪人になれ、犯罪者になれ

と言っているようなもの。

 

そこに、歎異抄はカミソリ聖教と言われるゆえんがある。

カミソリは大人が使えば便利だが、子供に持たせると危険なもの。

仏教を知らない人が歎異抄を読むと、子供にカミソリ状態。

仏教をよくわかっている人が歎異抄を読めば、大人にカミソリ。

 

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」

と聞いて、善人より悪人になれ、と理解するのは、とんでもない聞き誤り。

 

実は歎異抄は、そんな聞き誤りを正すために書かれた、とのこと。

歎異抄第1章~10章は、親鸞聖人の仰ったお言葉がそのまま書かれている。

11章~18章は、親鸞聖人が亡くなられた後、まるで親鸞聖人が仰ったかのように、親鸞聖人が仰っておられないことを言いふらす者が出てきた。それを歎いて、その誤りを正すために書かれたのが歎異抄。

その中に、造悪無碍、と出てくる。これが聞き誤り。

 

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」

とは、

「本願他力の意趣」

を教えられた。第三章に書かれている。

反対に、

「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。」

とは、一見正しいことのように聞こえるが、

「本願他力の意趣」

に背いている、つまり、本願他力の意趣を知らないのだ、それに背を向けているのだ、それを知らない人が言うことなんだ、ということ。

 

「本願他力の意趣」

とは、阿弥陀仏の本願のことです。他力とは阿弥陀仏のお力のこと。

他人のふんどしで相撲を取ることではない。

一般的には、他人の力を借りて何かをすることを他力と言っている。

それは間違い。

他力とは仏教の言葉。釈迦の言われた他力の意味は、阿弥陀仏のお力のみを他力と言われた。

だから、本願他力とは、阿弥陀仏の本願のこと。

意趣とは、心のことだから、

「本願他力の意趣」

とは、阿弥陀仏がどのような心で本願を建てられたのか、ということです。

 

そのためには、阿弥陀仏の本願を知らなければ理解できない。

 

阿弥陀仏の本願とは、歎異抄では冒頭に、

「弥陀の誓願」

と言われている。歎異抄は弥陀の誓願に収まる。

 

仏教とは仏の説かれた教え。仏とは、死んだ人のことではない。仏の悟りを開いた人。地球上では釈迦一人。35歳の時に仏の悟りを開いて、80歳で亡くなられるまで、教えを説かれた。これが仏教。その間、45年間の教えは、経典として書き残されていて、7千冊以上ある。それを全部読むと、阿弥陀仏の本願一つを教えられた、ということが分かる。

 

なぜ釈迦は阿弥陀仏の本願しか教えられなかったのか。

それは釈迦と阿弥陀仏の関係を知れば分かる。

阿弥陀仏とは、釈迦が私たちに紹介してくだされた仏。どのように紹介されているか。それは、三世十方の諸仏の本師本仏、と教えられている。

 

三世十方とは、この大宇宙のこと。大宇宙には地球のようなものがたくさんある。こんなことを2600年前に釈迦は教えられた。現代の天文学者がびっくりするようなことを言われている。

その地球のようなものに、釈迦と同じように、仏の悟りを開いた方が現れている。それが諸仏。

その諸仏の先生であり、師匠の仏が阿弥陀仏である、ということ。

 

釈迦も阿弥陀仏のお弟子であるから、師匠の阿弥陀仏の本願一つを教えられた、ということは、弟子として当たり前。弟子の使命は、師匠の心を伝えることだから。

 

なぜ阿弥陀仏は、本師本仏と仰がれるのか。

それは本願が、ずば抜けて素晴らしいから。

 

一体、どんな本願なのか?

本願とは、歎異抄には誓願と書かれている。誓い、だから、約束のこと。

阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀仏のなされているお約束のこと。

 

経典には、漢字36文字で約束されているが、平たく言うと、

「どんな人でも、必ず助ける、絶対の幸福に」

ということになる。

 どんな人でも ー 相手を選ばず、全ての人が約束の相手

 必ず助ける  ー 死んでから助けるのではない、今助ける、ということ

 絶対の幸福に ー 絶対に崩れない、変わらない、安心・満足のこと

          これがなぜ生きるの答え、生きる意味です

 

「風吹けど 山は動かず 信念も」

歎異抄をひらく、を書かれた先生のお歌。

どんなに強い風が吹いても山は動かない。そのように動かない信念。これは信心であり、絶対の幸福の世界です。

 

親鸞聖人は、人生を海に例えられ、苦しみ悩みの波が絶えない海と言われた。

それが、一念の瞬間に、大きな船に乗せて下される。船に乗れば、どんな波も障りにならない。この船に乗ったのが、絶対の幸福。人間に生まれてきて良かった、生きてきて良かった、歯をくいしばって生きてきた甲斐があった、と喜べる世界。生きる意味です。

 

この船の行く先は一つ。極楽浄土です。この船に乗った人は、死んだらどうなるか、がハッキリする。私たちは、死んだらどうなるか、ハッキリしない。死んだ後が有るのか、無いのか、もハッキリしない。

それが、一念の瞬間に、船に乗せられて、なぜ生きるの答えがハッキリする、死んだ後どうなるかもハッキリする。

 

では、全ての人をどんな者と見て本願を建てられたのか。それが意趣。

 

(ここでお昼休み)

 

人生は難度海。人の一生は重荷を背負うて、遠き道を行くが如し。

それが、不可思議の願力によって、一念の瞬間に船に乗せられる。船に乗せられたのが絶対の幸福。安心と満足が微動だにもしない。歎異抄には「無碍の一道」と言われている。

これを親鸞聖人は、平生業成と言われています。現在ただいま、人生の目的である絶対の幸福が完成する、達成する、ということ。

 

では、全ての人をどういう者と見られて、阿弥陀仏は本願を建てられたのか。これが

「本願他力の意趣」

です。

全ての人は悪人で、助かる縁がないもの。それを仰った釈迦の言葉。

「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」

 

なぜこんな酷い姿なのか。

 

これは仏の眼からご覧になられた姿。人間が人間を見ているのではない。

仏とは、死んだ人ではありません。

仏とは、見聞知の方です。

 

人は、その人の身、体の行いを見て、次に口、つまり言動で判断している。

しかし心は分からない。

 

仏さまは、一番最初が心。心の指示で口や身は動いている。心が火の元で、口や身は火の粉。

「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」

と教えられている。

 心で思うのは、他人に迷惑をかけていないのだから、何が悪いのか

と思う人もあるでしょう。

 

特殊詐欺の被害が今も続いています。あれは親玉がいて、アルバイトに命令してやらせている。どちらが悪いか。命令している親玉が悪い。それがなかなか捕まらない。

 

私たちの口や身を動かしているのは心。心が諸悪の根源。

善をやっても、それを欲の心でやっているから、損得勘定でやっているから、お礼や見返りを期待している。それが毒です。人間のやる善は雑毒の善と言われます。善が大きくなればなるほど、毒も大きくなる。だから、お礼がないと腹を立てる、後悔する。そして、心で殺す、罪を造る。

これが人間の善の実態。だから一つの善も無し、と言われる。

 

「心口各異 言念無実」

と釈迦は教えられた。心で思っていることを正直に口に出せるか。他人に分からないことをいいことに、心では悪ばかり思い続けている。

 

悪人とは心の悪人のこと。心が元。

心も口も身も悪ばかりだから、人生は難度海になる。

 

全ての人は悪人。善人なんて一人もいない、と仏さまは見抜かれている。心の中をお見通し。ニュースに出てくる犯罪・事件は、他人事ではない。同じ立場に立てば同じことをやるだろう。

 

歎異抄には、

「さるべき業縁の催せば、いかなる振る舞いもすべし」

と言われています。

にっちもさっちもいかない状況に追い込まれると、我利我利の心で自分の身を守るため、何をしでかすか分からない。

 

全ての人は悪人、ということは、心の中を見透かされたら反論できない。

 

そんな者を絶対の幸福に救うと阿弥陀仏は誓われている。

私が悪人、と知らされた、その時、本願の船に乗せられる。

本願の船は悪人を助けるために造られた。悪人が正客。

 

仏法は聴聞に極まる。本当の自分がハッキリ知らされる、悪人とは私のことだった、と知らされるところへ導かれる。阿弥陀仏の心を疑って、自分で善ができるとうぬぼれている人でさえ、仏法を聞いていけば、やがて本当の自分と対面させられて、悪人と知らされて、船に乗せて頂ける。

 

善人でさえ仏法を聞いていけば救われる。

自分は悪人と知らされた人はなおさら救われる。

 

以上